スラヴ叙事詩

セルビア皇帝
ステファン ドゥシャンの戴冠式

ペトル ヘルチツキー

民族の教師 ヤン アモス コメンスキー

聖アトス山

原故郷のスラヴ民族

ルヤナ島のスヴァントヴィト祭

ロシアの農奴制廃止

イヴァンチッツェの
モラヴィア兄弟団学校

ヴルタヴァの野外劇

「スラヴ叙事詩」制作の資金を提供するなどミュシャに協力した チャールズ クレイン

モラヴィア教師合唱団

ヒヤシンス姫

ペトル・ヘルチツキー

セルビア皇帝ステファン ドゥシャンの戴冠式

プジェミスル朝のオタカル2世

クロムニェジージュのヤン ミリチ

クジージュキの会合

ブルガリアのシメオン皇帝

ブルガリアのシメオン皇帝

クロムニェジージュの
ヤン ミリチ

クジージュキの会合

プジェミスル朝のオタカル2世

チェコスロヴァキア YWCA

イヴァンチッツェの地方展

ブルノの南西モラヴィア宝くじ

第6回ソコル大会

聖アトス山

民族の教師 ヤン アモス コメンスキー

ヴィトコフの戦いの後

ポジェブラッドのイジー

スラヴ菩提樹の下で宣誓する青年たち

スラヴ賛歌

ズリンスキー総督による
トルコに対するシゲット防衛

プラハ・ベツレヘム礼拝堂での
ヤン フスの説教

大モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入

グルンヴァルトの戦いが終わって

完成後最初のスラヴ叙事詩展カタログ (左) と
ミュシャによる作品解説 (右下) (1928)

プラハ聖ヴィタ大聖堂のステンドグラス

スラヴ叙事詩展

スラヴ菩提樹の下で宣誓する青年たち

ポジェブラッドのイジー

ヴィトコフの戦いの後

チェコ時代

スラヴ叙事詩

ズリンスキー総督によるトルコに対するシゲット防衛

ルヤナ島のスヴァントヴィト祭

原故郷のスラヴ民族

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ロシアの農奴制廃止

チェコの歴史家 F.パラツキー(左)
作曲家 B.スメタナ(中)と
歴史文学者 A.イラーセク(右)
チェコの切手から

1919年、プラハのクレメンティナムでの
初めてのスラヴ叙事詩展カタログ

ロシア復興

グルンヴァルトの戦いが終わって

大モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入

プラハ・ベツレヘム礼拝堂でのヤン フスの説教

イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校

「スラヴ叙事詩」 構想のめばえ
 「スラヴ叙事詩」は遠い知らない国の歴史ではありません。さまざまなところでわたしたちともかかわりがあります。
 ヨーロッパ大陸の中心にあって他国他民族の支配を受け続けたチェコとそのような経験のない東洋の島国日本とは大きく違い、すぐには理解しにくいこともあります。しかしあまりにも異なる歴史だからこそかえって歴史と向きあう意味を考えさせられる機会になります。
 ミュシャにとって「スラヴ叙事詩」は
三度目の歴史画シリーズにあたります。6m×8m、小さいものでも4m×5mもある超大作20点からなる「スラヴ叙事詩」を制作するいくつかの理由と要因がミュシャにはありました。
 「スラヴ叙事詩」を詳しく見るとイヴァンチッツェ、ブルノ、ウィーンで過ごした少年期、その後のミュンヘン時代やパリの美術学校の生活、ポスター、装飾パネル、カレンダーの仕事、なかでも挿絵画家の経験が強く反映しています。「アダミテ Adamité」や「
ドイツ史 -歴史の場面とエピソード- Scènes et Épisodes de l'Histoire de Allemagne」を見ると影響だけでなくごく早い時期に構想のめばえがあったことがわかります。
歴史と向き合う
 「スラヴ叙事詩」制作の直接の動機は、芸術の本来の役割としてチェコ国民が自国の歴史と向きあうための絵画を制作することが画家の自分に課せられた義務だと若いころからミュシャが考えていたことにあります。さらに1900年のパリ万博で南スラヴの歴史を壁画に描くため現地に取材した時の体験が構想具体化を後押ししました。
 歴史家
フランティシェク パラツキー(Frantisek Palacký 17981-876)の「ボヘミア史」などの著作をはじめ、音楽ではベドジフ スメタナ(Bedrich Smetana 1824-1884)の連作交響詩「わが祖国 Má Vlast 」、文学ではアロイス イラーセク(Alois Jirásek 1851-1930)の歴史文学という優れた成果がある一方で、直接視覚に訴えるがゆえに最も効果的だとミュシャが考える絵画では歴史と向きあうための作品制作がまだ誰にもなされていないという強い思いがミュシャにはありました。
スラヴ叙事詩
 「ギルガメシュ叙事詩」をはじめ古代ギリシアの「イリアス」、「オデュッセイ」、フィンランドの「カレワラ」やヒンドゥーの「ラーマーヤナ」など神話や歴史、英雄を伝える叙事詩が世界の民族にあります。しかし「スラヴ叙事詩」という伝承文芸はありません。
 「スラヴ叙事詩」とはスラヴとチェコの歴史を描いたオリジナルの絵画シリーズにミュシャ自身がつけたタイトルであって、絵画でつづる叙事詩のような作品というほどの意味です。"歴史のエピソードとその場面"でつづるチェコの歴史という「スラヴ叙事詩」の性格には
「ドイツ史 -歴史の場面とエピソード-」や「歴史イラスト集 Album Historique 」の挿絵制作の経験が反映しています。
 チェコには吟遊詩人に歌い継がれた数多くの伝説があり古くから民衆に親しまれてきました。近代の歴史学以前には民衆の間ではむしろ伝説が「歴史」だったのです。「スラヴ叙事詩」に先行するスメタナの「わが祖国」、イラーセクの歴史物語も歴史と伝説の両方から題材を得ています。「スラヴ叙事詩」も綿密な考証による写実的な歴史の場面と象徴的表現が同居するミュシャ独自の描き方が魅力です。
未来の希望
 ヨーロッパの中央部に位置するチェコはドイツやロシアだけでなく周囲の強国に支配され続けました。しかし、チェコの歴史は過酷な環境の中で中世から近世、近代、現代へと世界を変革する重要な思想、社会の仕組みや発明を生み出した歴史でもありました。チェコがオーストリア帝国の支配下にあった当時にミュシャは国民のひとりひとりが未来に確かな希望を持つには自分たちの歴史と向きうための絵画作品が必要だと痛感していたのです。「目から心に直接はたらきかける絵画には音楽や文学よりも人々の知性と感情に訴える力がある」と画家のミュシャは確信していたからです。
時代遅れの
 「スラヴ叙事詩」は描かれた当時はチェコ国民のためのメッセージでした。しかし、作品が完成したときすでに10年前に独立していたチェコスロヴァキア共和国と国民からは「スラヴ叙事詩」はメッセージも絵画作品としても時代遅れの"お荷物"とされ、プラハから遠く離れたモラヴィアの古城に閉じ込められてしまったのです。
 その後のチェコスロヴァキア共和国はナチスドイツに解体され、大戦後もソ連の共産党支配体制に組み込まれてふたたび独立するのはミュシャ没後50年の1989年になってからのことでした。
 "時代遅れ"の忘れられかけた作品でしたが20世紀の戦争と核の脅威、21世紀もテロと経済不況の不安が解消されない歴史をくぐって「スラヴ叙事詩」のメッセージはチェコ国民だけでなく人類に普遍のものと見なおされつつあり世界中で再評価がはじまっています。
 画家はその時代のために作品を制作します。しかし優れた芸術は時代を超越してメッセージを語り続けます。ミュシャはそのような芸術家であることを「スラヴ叙事詩」はわれわれに知らせてくれます。
"愛"と"叡知"
 なぜミュシャは「スラヴ叙事詩」を描かなければならなかったのか。ミュシャの心のうちをたずね、そのうえでもういちどミュシャ・スタイルの美しいポスターや装飾パネルを見てください。きっと新しいミュシャの世界が開けるでしょう。
 ミュシャ自身、「スラヴ叙事詩」を発表した後、ヴィタ大聖堂のステンンドグラスはじめ"愛"、"人類の叡知"と向きあう次の歩みへと進みはじめました。「スラヴ叙事詩」は最終到達点ではなくさらにその先の計画を進めていましたが、生涯を一貫するミュシャのメッセージという意味でもやはり「スラヴ叙事詩」はライフワークと位置づけることができます。
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スラヴ叙事詩展のポスター
プラハ展 1928年(左)、ブルノ展 1930年(右)

チェコ時代







フォノフィルム

1918−1928

スラヴ賛歌