大モラヴィア国のスラヴ式礼拝式の導入

 西暦880年、スラヴ語の礼拝式を承認しメトジェイを大司教に任命するローマ教皇の手紙を読みあげているところです。
 画面中央、円形の建物の前に立つ白髪の老人がメトジェイ。
(ツィリルはこれ以前にローマで亡くなっており、ソコルの輪を持つ若者の上に弟子たちとともに描いています。)

 1963年、当時のチェコスロヴァキアは宗教を認めない共産党の支配体制下でしたが、ツィリルとメトジェイがモラヴィアに派遣された863年から1100年の節目を"大モラヴィア国"の名目で切手を発行して記念しました。

モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入 (863-880  ― 母国語で神に祈る ―  
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大モラヴィア国1100年切手
(1963年)

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スラヴ人の国
 モラヴィア国
(大モラヴィア国、モラヴィア王国、モラヴィア公国とも)はスラヴ人の最初の国家です。ゲルマン民族の大移動に伴って、アファール人の支配から解き放されたスラヴ人たちが移住し、現在のチェコ、スロヴァキアだけでなくハンガリー、ポーランド、オーストリアのかなりの部分を含む広大な国家を建設しました。
 2代目の統治者のロスチスラフ公は、"キリスト教化"を名目に侵入をもくろむ東フランクなど周囲の敵国から独立をまもるために、独自の教会組織を作ってキリストを導入することを決意します。
 モラヴィア国の要請で、863年にビザンティン帝国東方教会から派遣された
聖ツィリル(キュリロス827-869、本名コンスタンティノス)と聖メトジェイ(メトディオス 826-885は、スラヴ人の言葉による礼拝式を定めて礼拝をとりおこない、スラヴ語の説教でキリスト教を広めただけでなく、スラヴ語を表記するグラゴール文字を考案して聖書の一部を翻訳し、スラヴ文化の発展に寄与しました。(現在ロシアやウクライナ、ブルガリアなどで使われている「キリル文字」はツィリル(キリル)らが作ったグラゴール文字をもとに弟子たちが改良したといわれています。)
スラヴの言葉で

 教会公用語のラテン語、ギリシャ語でなく"自分たちの言葉"で礼拝をおこなうことは、東フランクのカトリック教会からは許せないことでしたが、"言葉"を大切にするスラヴの人たちにはとりわけ重要でした。"Slav スラヴ"ということばには「儀式」「祝典」「言葉」というニュアンスが含まれており、現代チェコ語でも、 Slavnost、 Sláva は「名誉」や「名声」、Slavit 「ほめたたえる」、Slovo 「言葉」、「約束」、「発言」、「スピーチ」など言葉にかかわる意味を表します。
 当時のヨーロッパでキリスト教を受け入れることは"文明開化"にあたり、モラヴィア国ではキリスト教導入によってスラヴの言葉による文化が花開きました。"神聖"なラテン語でなく、"民衆の言葉"のスラヴ語で神をたたえるのは、のちの"宗教改革"にも匹敵するほどの画期的なことでもありました。
 豊かな文化の時代は長く続かず、"鉄十字"をかかげて画面左から迫ってくる東フランク王国のカトリック司祭にとって替わられ、モラヴィア国も滅びますが、離散した聖メトジェイの弟子たちはブルガリアで保護され、シメオン1世のもとでスラヴ文芸文化の花を開かせることにつながります。ブルガリアのシメオン1世によるスラヴ文化の精華は、その後「聖アトス山」に保管され現代にまで伝わることになります。
 短命のモラヴィア国は100年にも満たず跡形なく崩壊しました。チェコ、モラヴィアのキリスト教はカトリック系に置き換えられ、礼拝はスラヴ語ではなくラテン語で行っています。しかし、ツィリルとメトジェイへの崇敬は国民の心に深く刻まれています。のちの時代の、宗教改革者フス、国際平和の仕組みを作ろうとしたイジー王、チェコスロヴァキアを独立に導いたマサリク、共産党独裁からビロード革命で自由を取り戻したハヴェルなど、自由を求めて民衆とともに戦う彼らの思想と行動は、ツィリルとメトジェイがまいた種から実を結んだといえるでしょう。
ステンドグラス
 プラハ城の聖ヴィート大聖堂にはミュシャの美しいステンドグラス
(1931年)があります。ステンドグラスのテーマも聖ツィリルと聖メトジェイです。ヴィート大聖堂は聖ヴァツラフ一世の10世紀のいしずえの上に14世紀にカレル4世が聖堂を築きはじめ、20世紀になってチェコ国民の寄付によって完成しました。数百年かけて築いた大聖堂に、ミュシャはスラヴの文化と歴史の起点ともいえる聖ツィリルと聖メトジェイを描いたのです。

テンペラと油彩  1912年  610 × 810 cm

スラヴ叙事詩

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