スラヴ叙事詩展

チェコ時代 へ
ミュシャの娘 ヤロスラヴァ
Jaroslava Muchová Syllabová
(1909-1986)

 ミュシャの娘ヤロスラヴァはニューヨークで1909年に生まれました。ミュシャが『スラヴ叙事詩』 制作の資金を得るために拠点をアメリカに移していた時期だったからです。ヤロスラヴァが生まれた年の暮れにようやく計画実現の目途がたって、翌1910年に一家はプラハの西にあるズビロフに移ります。
 父の仕事を間近に見ながら、時に作品のモデルになり、時に父の制作を子どもなりに手伝って育ちました。成長してヤロスラヴァが絵画修復の専門家になったのは、そのような環境で育ったことが背景にあったのでしょう。ナチスドイツの略奪から守るため急いで隠してダメージを受けてしまった 『スラヴ叙事詩』 の修復活動にヤロスラヴァは大きな役割を果たしました。
 ヤロスラヴァは、1989年のミュシャ没後50年展で『スラヴ叙事詩』を初めて日本で公開するための契約を見届けるようにして1986年11月に亡くなりました。彼女の生涯は 『スラヴ叙事詩』 とともにあったといえるでしょう。

絵画修復家ヤロスラヴァ
(1953年)
ポーズをとるヤロスラヴァ
(1914年)

幼子を抱く"チェヒア"
『ハーモニー』から
(部分 1908年)

 『ハーモニー』(1908年)は、アメリカ滞在中の代表的な油彩です。「人類の進歩には様々な要素があり、それぞれが大いなる調和の中にある」 というテーマの縦1.3メートル 横4メートルもある大作です。
 『ハーモニー』 の画面左側には、幼子を抱き祝福を受ける女性が描かれています。この女性は 「チェヒア」 といって、「チェコを象徴するお母さん」 です。チェヒアが抱いている幼子は、未来に生まれてくるべきチェコです
(この絵を描いている1908年当時は独立前で、オーストリア帝国に支配されていた時代だった)。
 『ハーモニー』 はチェコの人たちに語りかける作品ですが、制作しているときミュシャの妻マルシュカはミュシャにとって初めての子
(ヤロスラヴァ)を宿していました。つまり、『ハーモニー』 は、チェコとともに、これから生まれてくるわが子の 「未来の希望」 を祈る作品でもあったのです。

『ハーモニー』 (1908年) 土居君雄コレクション

ミュシャと家族 
左から ヤロスラヴァ、マルシュカ、イジー
後ろに立っているのがミュシャ

(1916年)










『チェコスロヴァキアの10コルナ紙幣』
(1919年)
『チェコスロヴァキアの50コルナ紙幣』
(1929年)
『スラヴ菩提樹の下での若者たちの誓い』
(1926年)
「ハーストインターナショナル」誌の表紙
(1921年)
『フォノフィルム』のポスター
(1927年)