ステンドグラス

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1000年記念
 1997年、聖アダルベルト殉教1000年を記念する同一デザインの切手を、チェコ、ポーランド、ドイツ、ハンガリー、バチカン市国で共同発行しました。
聖アダルベルト(聖ヴォイチェフ 956頃-997)
 956年頃にボヘミア
(チェコ)中部で生まれたアダルベルトは、現ドイツのマクデブルクで学んだ後、983年にプラハ司教になりました。ボヘミア王プジェミスル家と対立する貴族の家に生まれたためプラハでは政治対立に巻き込まれ、ハンガリーの貴族、後のイシュトバーン1世とその父、ポーランド公で後にボヘミア公にもなったボレスラフ(ポーランドではボレスワフ1世)の庇護のもと、そのころはまだ異教徒だったプロイセン(現ドイツ)人たちへの宣教活動に力を注ぎました。ポーランドもハンガリーもどちらもアダルベルトによってキリスト教に教化されました。
 ボヘミア名はヴォイチェフですが、マクデブルクで学んだ大司教アダルベルトの名前もらい改名したため、ポーランド、チェコでは洗礼名のヴォイチェフと呼び、フランスなど西欧諸国では司教名でアダルベルト
(アダルベルトゥス)と呼んでいます。
 997年、バルト海沿岸に住むプロイセン人に布教しているとき、異教徒との信仰の対立からケーニヒスベルク辺り
(現在はロシア領)で殉教しました。宣教のためにアダルベルトを派遣したカトリック教会によってわずか2年後の999年に聖人に列せられます。
 殉教したアダルベルトの遺骨は聖遺物としてポーランド、そしてプラハに送られ、どちらにも墓があって国民的聖人として崇敬されています。
(かし)と髑髏(どくろ)
 「聖アダルベルトの死」の挿絵を見ると、アダルベルトの倒れた姿と、樫の木の太い根元にうち捨てられた髑髏
(どくろ 頭蓋骨)が目に入ります。樫の木は、プロイセン人の神木の霊性を否定して切り倒したためにアダルベルトが殺されたことを示しています。ポーランドとボヘミア(チェコ)両国の対立から、聖アダルベルトの頭蓋骨がポーランドとプラハの2ヶ所それぞれにあるという矛盾を示唆しているのかもしれません。あるいは、数多くの髑髏を描いて手前の髑髏に注目させるように樫の木の根を這わせて描いている様子からすると、ミュシャもプラハ新市街の聖ヴォイチェフ教会に安置しているものが正統な聖アダルベルトの聖遺骸と主張しているようにも見えます。木の根の描き方によって髑髏に注目させる手法は、「ジスモンダ」のポスター以後のミュシャ・スタイルポスターのテクニックになっていきます。
 聖ヴォイチェフ教会は、プラハのオルガン学校で音楽を学んだドヴォジャーク
(作曲家 ドヴォルザーク Antonín Leopold Dvořák 1841-1904)がオルガニストをつとめていた教会としても有名です。

聖ボイチェフ(聖アダルベルト)の死 997年

聖ヴォイチェフ(聖アダルベルト)殉教950年
チェコスロヴァキアの切手 1947年

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聖アダルベルト(1997年)
バチカン市国発行

聖アダルベルト(1997年) チェコ発行の切手(シート)