ミュシャ生涯

               ― ミュシャは本当にラッキーボーイだったのでしょうか? ―

 サラベルナールのために描いたポスターが大評判になり 一夜にしてパリ中でもっとも有名な画家になったという伝説を持つアルフォンスミュシャ1860-1939)は、豊かな才能を持って生まれ その才能を遺憾なく発揮するチャンスにも恵まれた 世紀末の幸運児といわれています。 彼ほどのラッキーボーイはないと今なお羨望の的です。
 しかし、本当にそうだったのでしょうか? 本当にミュシャは幸運に恵まれて生涯を送ったといえるでしょうか
 圧政下のチェコに生まれる
ミュシャの生家 ミュシャの祖国チェコは1620年以来300年近くにわたってハプスブルグ家オーストリア帝国に占領されていました。 当時、厳しいゲルマン化政策のためにチェコの公立学校ではチェコ語を使うことは禁止されドイツ語による教育が行われていました。 そのため若い世代はチェコ語を忘れ、母国語を理解できなくなっていたのです。 そのような時代にミュシャは片田舎の町イヴァンチッツェの貧しい家庭に生まれました。

 
 
  ミュシャの生家(イヴァンチッツェ)
 ウィーンの工房を解雇され、放浪生活へ
 歩き始める前から絵を描いていたといわれ、幼いときから絵の才能を発揮していたミュシャは18才の時 プラハの美術学校進学を希望しますが書類審査で落とされて入学はかないませんでした。新聞広告で知ったウィーンにある舞台美術の工房に就職、仕事をしながら夜間の絵画教室に通って勉強していました。 ところが2年後に劇場が焼失して工房の仕事がなくなり、一番若いミュシャも解雇されました。
フルショバニー城の衝立
 失意のミュシャは故郷に帰ることもできず南ボヘミアの田舎町で土地の名士の肖像画を描いたりしながらあてもなく放浪していて、後にパトロンになった貴族クーエン=ベラシ伯爵と出会いました。
 学費の援助が途絶えて挿絵画家となる
 伯爵の城館での絵画修復や制作が認められ、学費と生活費の援助を得てミュンヘン、続いてパリのアカデミーで勉強する幸運に恵まれたものの、1889年に突然援助が打ち切られてしまいました。
 生活のためにミュシャはやむなく書籍や雑誌の挿絵表紙などの仕事をはじめました。挿絵の仕事を始めて1年もたたないうちに、緻密なデッサンと 緊張感ある画面構成が注目され、ミュシャはフランス最高の挿絵画家と肩をならべて評価されるようになります。 しかし、余裕のある生活とはいえませんでした。
 クリスマス休暇もなく
 1894年の暮、クリスマス休暇をとる余裕のないミュシャは、休暇に出かける友人カダールに代わってリトグラフの印刷所で彼の仕事の仕上げをしていました。 その時印刷所に大女優のサラベルナールからポスターの依頼が舞い込んできたのです。印刷所長は、クリスマス休暇で画家たちは誰もいないので、仕方なくたまたまそこに居合わせたポスターの経験のないミュシャに描かせました。
 その頃の流行とは違うミュシャの風変わりなデザインを見て、印刷所長はサラベルナールに断られるに違いないと なかばあきらめながらポスターの下絵をサラに見せました。ところが意外にも彼女が気に入ってくれ、ホッとしながら印刷したところ、パリの街にポスターが貼り出されると同時にパリ中で大評判になったのです。このポスターはミュシャとサラベルナール2人の芸術家に幸運をもたらしました。

 肖像画失敗

 ポスターの成功をきっかけに、ミュシャはアールヌーヴォーの中心的な画家として世界中で注目され、デザインの注文が殺到するようになりました。
 しかし、自分自身ではアールヌーヴォーの画家と考えていなかったミュシャは、パリでの成功に満足することなく、芸術を通して祖国に貢献したいとの夢をいだいて ライフワークの「スラヴ叙事詩」制作資金を得るためにアメリカに渡りました。上流社会の人々の肖像画を描いて資金を得るというミュシャのもくろみは、すでにサージェントが活躍していて機会を得られないまま挫折してしまいます。 模索しながらヨーロッパとアメリカを何度も行き来していたところ、大作20点からなるスラヴ叙事詩を制作してプラハ市に寄贈するというミュシャの計画に賛同してくれる親チェコ派のシカゴの富豪チャールズクレインとようやく出会い、ボヘミアのズビロフ城を借りて大作の制作にかかりました。

 時代遅れスラヴ叙事詩

 チェコとスラヴ民族の歴史の諸場面を描いた6×8メートルもある畢生の超大作20点が1911年から1928年まで18年の年月をかけてようやく完成した時、祖国はすでに10年前の1918年にチェコスロヴァキア共和国として独立を果たしていて、スラヴ叙事詩は文字通り無用の長物となっていました。
 また20世紀の美術界は抽象画や表現主義のモダンアートの時代に移行していて象徴的表現で描いたミュシャの超大作の歴史画は時代遅れなものになっていたのです。

 ふたたび祖国を失う

ミュシャ死亡記事 300年の苦難の時代の末の祖国独立に立ち会い、新しく誕生したチェコスロヴァキア共和国と国民のために紙幣や切手をデザインしたことはミュシャにとってたいへん幸せなことでした。 しかし、それからわずか20年後、1939年にはナチスドイツが侵攻してチェコスロヴァキア共和国は解体させられ、ミュシャが亡くなったときには祖国は存在していませんでした。
 第二次大戦が終わって一時ェコは解放されましたが、1948年には共産主義化してソヴィエト連邦の圧制下に置かれェコがふたたび自分たちの国を回復するのはミュシャが亡くなって50年後、1989年のことでした。 その頃になってようやく「スラヴ叙事詩」もスラヴの歴史だけでなく人類普遍のメッセージを描いた重要な作品であることが世界中の人に理解され始めたのです。




   ミュシャの死を伝える
   チェコの新聞(1939年)

 失意幸運

 ミュシャの幸運は、そのほとんどが失望や絶望のさなかにやむを得ず選んだ行動が たまたま成功に結びつく結果となったのです。 ミュシャ自身は ほとんどいつも自分はついてない人間だと考えていたのではないでしょうか?
 もしミュシャの運がよくて、プラハの美術学校に入学できていたら、 ウィーンで劇場が焼失せず解雇されることもなかったら、 伯爵の援助が打ち切られることなくクリスマス休暇をとる余裕があったら、 “アールヌーヴォーの華 アルフォンスミュシャ” はなかったかもしれません。 そして私たちがこのようにすばらしい作品を楽しむことはできなかったでしょう。
 ラッキーだったのはミュシャではなくて、ミュシャの美しい作品に恵まれている私たちの方なのかもしれません。

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