Alfons Maria Mucha
  アルフォンス・マリア・ミュシャ(ムハ)Alfons Maria Mucha は1860年7月24日、オーストリア帝国モラヴィア(現在はチェコ共和国)のイヴァンチッツェに生まれました。父親はオンドジェイ (アンドレアス) ・ムハ、母はアマリエ。ミュシャの祖先は10世紀よりも前にイヴァンチッツェの町ができた頃からこの地に住んでいたようです。
 ミュシャの兄弟姉妹はアロイジア、アントニア、アウグスト、アンナ、アンジェラとみんな A で始まる名前がついています。おそらく父オンドジェイ
(アンドレアスのチェコ語名)に因むのでしょう。マリアというミドルネームは母アマリエの希望でつけられました。
 ムハ Mucha、Moucha はイヴァンチッツェでは普通にみられる古くからあった名前です。チェコ人の名字には変わった意味のものがよくありますが Mucha も昆虫のハエ
(蠅)などを意味する名前です。
 "Mucha" は「ムハ」と発音します。ドイツ語の強い「ムッハ」ではなく、チェコ語の「ムハ」は柔らかい発音です。

モラヴィア兄弟団学校
 イヴァンチッツェは南モラヴィアの小さな町ですが、ここを発祥地とするモラヴィア兄弟団の活動によってチェコのみならず世界の歴史に重要な影響を与えています。モラヴィア兄弟団学校でなされた聖書の翻訳はチェコ語文法の基礎となり聖書を理想とする清貧、非暴力、自由、平等、兵役拒否の信条に根ざした兄弟団のの活動は17世紀以降カトリック教会から迫害を受けて挫折し信徒の多くが国外に追放されましたがそのためにかえってモラヴィア兄弟団の信条は世界中に広まり現代の欧米の思想・良心の基盤になりました。

イヴァンチッツェの教育
 ミュシャも イヴァンチッツェの豊かな教育環境のもとで民族運動の指導者だったクルダ司祭やミュシャにモリス、ラスキンの工芸思想を与えたノヴォトニー教師の影響を受けて育ち音楽教師フォルベルガー、美術教師のゼレニーに才能を見出されて未来を方向づけられたのです。
 ミュシャの教育についてはブルノの中学校と聖歌隊、プラハの美術学校の受験失敗とウィーンでの舞台美術工房、夜間講座、ミュンヘンの美術アカデミー、パリのアカデミー・コラロッシ、アカデミー・ジュリアンなどが知られていますが母親の理解とともに故郷イヴァンチッツェの教育環境はミュシャの形成に非常に重要な役割を果たしました。

イヴァンチッツェの教会塔
 ミュシャのライフワークとなった 「スラヴ叙事詩」 の1点はチェコ語文法の基礎にもなったクラリッツェ聖書を印刷するモラヴィア兄弟団学校です。この作品に描かれている場所はミュシャの生家からすぐ近くにあり絵の背景にはイヴァンチッツェのシンボルの教会塔が描かれています。塔の周りを飛ぶツバメはその後チェコがたどった過酷な歴史を象徴しています。
 幼い頃から塔を見上げ鐘の音を聞きながら育ったミュシャは生涯の転機のたびにイヴンチッツェの教会塔を心に浮かべて作品に描いています。

 教会塔と向き合うとこ ろにイヴァンチッツェ市のミュシ記念館があります。後世その建物に自分の記念館が開設されるとはもちろん想像するはずもなくミュシャ少年はスケッチに熱中していたことでしょう。

教会塔の前にあるミュシャ記念館(現在の外観)
イヴァンチッツェ市旧市庁舎(15世紀)

ミュシャ記念館入口の銘板

ミュシャの生家

19世紀のイヴァンチッツェ 町と教会塔を望む

イヴァンチッツェの教会塔 1878年
ミュシャが18才のときのデッサン
(イヴァンチッツェ・ミュシャ記念館蔵)

イヴァンチッツェの地方展 ポスター
 1912年

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ミュシャ



 ミュシャは旧市庁舎(現ミュシャ記念館)の裏側にある棟続きの建物で生まれたが、生家は取り壊されて今はない。
 
上はミュシャ少年時代の面影が残る改修前の旧市庁舎(イヴァンチッツェ市提供)。

現在のイヴァンチッツェ教区聖母被昇天教会

スラヴ叙事詩 「イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校」

「イヴァンチッツェの思い出」 ポストカード
  1906年 イヴァンチッツェ市発行

7月24日はミュシャの誕生日です。

ミュシャ











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