7月24日は ミュシャの誕生日です。
7月14日はミュシャの命日です。

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イヴァンチッツェ 聖母被昇天教会
鐘楼のスケッチ ミュシャ18才
鐘楼から旧市庁舎を見る
ミュシャ生誕100年 旧市庁舎
ミュシャの生家
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メンデル 切手
 「メンデルの法則」発表100年記念切手
(1965年)

生誕100年記念碑
旧市庁舎 1960年(改装前)

聖母被昇天教会鐘楼から旧市庁舎を見る
鐘楼の影が見える。

現在の聖母被昇天教会(イヴァンチッツェ教区教会)

イヴァンチッツェの地方展 ポスター
 1912年

18才のスケッチ 1878年
(イヴァンチッツェ・ミュシャ記念館蔵)

「イヴァンチッツェの想い出」
「イヴァンチッツェの地方展」
スラヴ叙事詩「モラヴィア兄弟団学校」
イヴァンチッツェ 旧市庁舎 改装前
現在のイヴァンチッツェ旧市庁舎
ミュシャ記念館 銘板
聖ペテロ聖パウロ教会 外観
聖ペテロ聖パウロ教会 内陣
聖ペテロ聖パウロ教会 聖歌隊席

ブルノから
 「歩く前から描いていた」といわれるミュシャですが、少年時代にはむしろ歌とヴァイオリンの音楽の才能が注目されていました。裕福な家庭ではなかったため、イヴァンチッツェの音楽教師の薦めでブルノで修道院聖歌隊の給費生となってギムナジウム
(大学進学前の中等教育学校)に進学することになりました。しかし、旧ブルノ修道院(聖母被昇天教会)に着いた時、一足違いで給費生の枠が満員になっていたため、かわりに聖ペテロ聖パウロ教会(ペトロフ)の聖歌隊給費生に推薦され、ギムナジウムに通いながら毎日聖歌隊で歌う生活を送りました(ギムナジウムの後輩には作家のカレル・チャペック Karel Čapek 1890-1938がいる)
 ブルノの数年間はミュシャを形成するあらゆる面で決定的な影響を与えています。「私が生涯愛したのは、絵画と教会と音楽」とミュシャ自身が語っているように、少年期に教会の聖歌隊でポリフォニー音楽を学んだことは、作品を理解するうえでも、彼の感性や生き方を考えるにも大きな意味を持っています。
 ブルノでは旧ブルノ修道院聖歌隊で指導助手を務めていた6才年上のヤナーチェク
(Leoš Janáček 1854-1928)と知り合い、2人の交流は終生にわたりました。世界的な芸術家となった2人を記念してブルノには、ミュシャの名は"通り"に、ヤナーチェクは"広場"に、それぞれの名前がつけられています。(ヤナーチェクの名は、劇場、音楽学校にもつけられている。)
 ミュシャがブルノにいた頃の旧ブルノ修道院院長は、「メンデルの法則」で有名なメンデル
(Gregor Johann Mendel 1822-1884)でした。"エンドウ豆の研究"はすでに終えていて修道院院長に専念していましたが、ブルノの中心的教会のペトロフと旧ブルノ修道院は関係が深く、活動を共にすることが多かったので、ヤナーチェクはもちろん、ミュシャもメンデル院長と挨拶を交わすほどのことはあったかもしれません。

旧ブルノ修道院 切手
聖母被昇天教会(旧ブルノ修道院)切手
(2004年)
パラッツ・ヤルタ ポリーフカ
パネンスカーの下宿
ポリーフカの蔵書票
オーストリア人「ミュシャ」 と ドイツ人「ミュシャ」
 2010年、誕生日前日の7月23日にオーストリアはミュシャ生誕150年の記念切手を発行し、2009年から2010年にかけて大規模な「ミュシャ展」をウィーンのベルヴェデーレ宮殿オーストリア国立絵画館で大統領列席のもと開催しました
(2009年2月12日-6月1日 続いてフランス・モンペリエ、ドイツ・ミュンヘンで約1年間開催)。土居君雄コレクションへも企画協力と出品の要請がオーストリア政府からありました。
 "チェコの画家ミュシャ"が生まれた1860年当時、現在のチェコ共和国地域
(モラヴィア、ボヘミア)はオーストリア帝国領だったので国籍はオーストリア帝国でした。ミュシャはオーストリア生まれのオーストリア人、"オーストリア帝国臣民"です。"自国の芸術家"ミュシャの生誕150年をオーストリアが盛大に祝って不思議はありません。
 1918年10月にチェコスロヴァキア共和国
(第一次)が誕生しますが、1939年3月にはナチスドイツに解体併合されてドイツの"ベーメン・メーレン(ボヘミア・モラヴィア)保護領"となり、ミュシャは"ドイツ保護領民"として亡くなりました。
 オーストリア人に生まれドイツ人として亡くなったミュシャが"チェコ人"だったのは58才から78才まで、第1次大戦後の1918年10月から第2次大戦直前の1939年3月の間わずか20年4ヶ月ほどでした。

 ミュシャが生まれたのは、15世紀歴史的建造物の旧市庁舎に棟続きの建物でしたが、生家は取り壊されて今はありません。
 イヴァンチッツェ地方裁判所の廷吏だった父オンジェイは当時の市庁舎に隣接する裁判所拘置所の一角を住居にしていて、ミュシャはそこで生まれました。ブルノから戻ってウィーンに向かうまではミュシャ自身も裁判所書記をしています。
 生家はなくなりましたが、イヴァンチッツェ市は旧市庁舎を「アルフォンス・ムハ記念建築」として2階にミュシャ展示室をおいています。また、現市庁舎の近くにはミュシャを記念して「アルフォンス・ミュシャ」の名前をつけた
道路があります。

 イヴァンチッツェの人々はミュシャを町の誇りと考え、街を歩くと、店のウインドウなどちょっとしたところにミュシャの絵を飾っているのが見られます。
 上の写真はミュシャ記念館からも近いレストランです。日本で開催したミュシャ展のポスターを大切に飾っていました。これらのポスターは、ミュシャの没後50年記念展覧会(1989年から1994年)を日本各地で開催したときのもので、展覧会の報告としてイヴァンチッツェ市に提供した開催資料からこのように飾ってくださっているものです。

イヴァンチッツェから
 イヴァンチッツェは南モラヴィアの中心地ブルノから20kmほどにある小さな町です。15世紀にここを発祥とするモラヴィア兄弟団の教育活動はチェコのみならず世界の歴史に重要な影響を与えています。聖書を理想とする清貧、非暴力、自由、平等、兵役拒否の信条に根ざした彼らの生活と活動はカトリック教会の迫害で壊滅し、カトリックへの改宗を拒否する信徒は17世紀以降国外に追放されました。 しかし、そのためにかえってモラヴィア兄弟団の信条は世界中に広まり、現代の欧米の民主主義・プロテスタント思想・良心の礎になりました。
 1578年にモラヴィア兄弟団によってイヴァンチッツェ近郊で翻訳・印刷された『クラリッツェ聖書』はチェコ語文法の基礎になっています。
イヴァンチッツェの教育
 ミュシャはイヴァンチッツェの豊かな教育環境のもとで育ち、音楽教師フォルベルガー、美術教師のゼレニーに才能を見出されて未来を方向づけられました。ミュシャの教育については、ブルノのギムナジウムと聖歌隊、プラハの美術学校の入学失敗、ウィーンでの舞台美術工房、夜間講座、ミュンヘンの美術アカデミー、パリのアカデミー・コラロッシ、アカデミー・ジュリアンなどが知られていますが、母親の理解とともに故郷イヴァンチッツェの教育環境が画家としてだけでなく人間ミュシャの形成に非常に重要なはたらきをしています。
イヴァンチッツェの教会塔
 『スラヴ叙事詩』 の1点は『クラリッツェ聖書を印刷するモラヴィア兄弟団学校』です。 この絵の場面はミュシャの生家から近く、 背景にはイヴァンチッツェのシンボルの教会塔
(イヴァンチッツェ教区教会 聖母被昇天教会 鐘楼)も描かれ、画面に見える城壁はすでになくなってますが、地名に今も残っています。
 幼い頃から塔を見上げ鐘の音を聞いて育ったミュシャは、生涯の転機のたびにイヴンチッツェの教会塔
(鐘楼)を心に浮かべ、作品に描いています。
 教会前のパラツキー広場をはさん向き合う旧市庁舎にはイヴァンチッツェ市のミュシ記念館があります。 少年ミュシャは後世そこに自分の記念館ができるとはもちろん想像するはずもなく、塔を見上げてスケッチに熱中していたでしょう。

イヴァンチッツェの想い出
ポストカード1906年
イヴァンチッツェ市発行

イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校』(『スラヴ叙事詩』)

ミュシャ記念館入口の銘板

聖歌隊を出たあとミュシャが下宿していた家(再開発で取り壊され今はない)
 ブルノ時代の後半にミュシャが下宿していたブロックが再開発になり、跡地に建ったポリーフカの建築「パラッツ・ヤルタ」 Palac Jalta (1929年建設、1949年と2019年に改装)。
 ミュシャの下宿は左側の通りに面したところに入口があった。
 ミュシャはボリーフカのために蔵書票をデザインしている。
建築家 Dr.ポリーフカの蔵書票
わが生家

ミュシャが聖歌隊で歌っていたブルノの聖ペテロ聖パウロ教会(通称ペトロフ)。 左から、内陣、2階聖歌隊席(オルガンの前)、外観。

ミュシャ生誕150年記念切手
(2010年 オーストリア発行)

生誕100年記念切手
(1960年 チェコ発行)

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チェコ人「ミュシャ」
  アルフォンス・マリア・ミュシャ
(ムハ Alfons Maria Mucha)は、1860年7月24日(日本では江戸時代末期の万延元年)に、オーストリア帝国領モラヴィア(現在はチェコ共和国)のイヴァンチッツェに生まれました。父親はオンジェイ・ムハ(Ondřej Mucha)、母は後妻のアマリエ(旧姓マラー)
 ミュシャ
(ムハ)の祖先は10世紀頃にはイヴァンチッツェに住んでいました。チェコの人々は6世紀から9世紀頃に現在のチェコ、モラヴィアの土地に移ってきて定住したようです。
 ミュシャ
(ムハ)の兄弟姉妹は、アロイジア、アントニア、アウグスト、アンナ、アンジェラと、みんな"A"で始まる名前です。おそらく父オンジェイ(アンドレアスのチェコ語名)に因むのでしょう。"マリア"というミドルネームは母アマリエの希望でつけられました。
 「ムハ
(Mucha、Moucha)」という名前はイヴァンチッツェに古くからあるごく普通の名前です。チェコ人の姓には変わった意味のものが多く、Mucha(Moucha) は昆虫のハエ(蠅)という意味です。
 Mucha は 「ムハ」 と発音し、ドイツ語式の強い 「ムッハ」 ではなくチェコ語の 「ムハ」 は柔らかく発音します。

ミュシャ

イヴァンチッツェ市 旧市庁舎 (左 改装前、15世紀の建築 右 現在) ミュシャ記念館が2階にある。